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■23日(土)東京・両国
土曜日。自宅付近の100円ショップ店内で揺れを感じる。棚がぐらんぐらんし始めたので、慌てて棚が正面から倒れてこない位置、つまりは棚の真横に移動。
揺れが収まり、家に帰ってテレビ速報を見る。
「津波の心配はありません」
サッと血の気が引く。津波が来ないということは、すなわち直下型地震である。震源地は小千谷。読めない。すぐ隣が長岡。長岡!?
僕のバンドのボーカル、近藤が長岡出身で、つい3ヶ月前の7.13水害でお祖母さんが被災したばかりだ。
そうこうしているうちに新潟のテレビ中継カメラがガタリと揺れ、その直後に東京も揺れた。
慌てて近藤に電話。
「とりあえず実家には繋がったんだけど、『いま地震来てるから!』と、切られた」と言う 。
2回目の地震の真っ最中に連絡が取れたのだ。
そんな電話じゃ不安でたまらない。その後も近藤は実家に電話を入れるが繋がらないと言う。
「公衆電話に100円玉入れてみたら?」
阪神淡路大震災の教訓。災害時は銀行内の公衆電話が一番繋がる。
しかしこの時はすでに夜、銀行は開いてない。
数時間後に「連絡着いた。家族は無事」という報告が入る。
「新潟、今から行くか?」
と僕が提案。
神戸のあの地震の時、僕は東京にいた。ずっといた。地震後すぐに帰ればよかったと今でも後悔してる。きっとこのまま親が死ぬまで後悔し続けるだろう。僕は生まれも育ちも神戸であるにも関わらず地震直後の大混乱や艱難辛苦を知らない。だからタコあし電源で「阪神淡路大震災」なんていうストレートで強烈な舞台を打ち、少しでも知ろうと少しでも被災を味わおうと試した。
そして、再び神戸のような地震が来たらすぐにその場所に飛ぼうと心に固く誓っていた。
取り急ぎ、僕はネットで新潟までの道のりを調べる。新潟LIVEカメラに、街の灯りが映る。電気が通っているのか?……が、よく見たらカメラは地震の瞬間で止まったままだった。テレビで流れる映像は震源地から遠い場所とのこと。不安が募る。
関越道から藤岡JCTで長野に入りそのまま北上、日本海沿いに北陸道で長岡に入れると、僕は踏んでいた。しかし日本道路公団のサイトで通行止めを調べるとなんと、新潟付近の高速道路すべてが封鎖されている。対応が早い! ニュースでも一般道はほぼ壊滅。被災地は完全に孤立していることが判明。我々素人が乗用車で行ける場所ではなくなっていた。
■24日(日)東京
次の日。初震から15時間程度経った朝になってようやく被害状況が分かってくる。死者は数名(神戸の場合は本震12時間後で死者1000人を越えていた)。NHKなどが行っていた安否情報もほぼ不要となり、放送は終了。神戸のような3日も続いた大火災もないようだ(新潟は過去に地震を経験していて、ガス管のつなぎ目に柔軟性を持たせているそうだ)。家屋やビルの倒壊もあまり見られない。ただ、土砂崩れと道路の寸断、そして余震とも呼べないほどの地震が続くことが最大の問題となる。
「とにかく、家族は無事だし。道路はないし。状況がもう少し分かってから行こう」
という近藤の言に従うことにした。
■27日(水)東京
予定していた観光旅行がすっ飛び、29日(金)夜に出発、30日(土)被災地入り。向こうで一泊。1日(月)の朝に東京に戻る。という計画が決定する。
近藤と申し合わせて、知り合い等にメールやサイトで「救援物資の募集」を行う。

■28日(木)神戸
僕は神戸、大阪に用事があり、ひとまず神戸に帰る。神戸では少し観光と人と防災未来センター(←ぜひ行ってみて下さい)で震災の勉強、舞台「阪神淡路大震災」西宮公演の打ち合わせ。
実は30日(土)には広島市民球場で奥田民生の「ひとり股旅」という十周年記念ライブがあり、それに近藤らと遊びに行く予定だった。しかし、近藤も僕もそんなものを楽しめる心境にはなかった。とにかく被災地に行かねば。気もそぞろだった。
現地のボランティア情報と、ボランティアの方法・服装などをサイトでチェック。プリントアウトしていると、
「新潟に連れていってください」
前作「阪神淡路〜」出演者の"いぬいりさこ"が電話してくる。しかし車は救援物資で満載になるだろう。あ、そういえば……同じく出演者の高橋幸生(さちお)が車を持っているはず。電話すると、
「もちろん行きます!」。
高橋とイヌイは、10年前に神戸で被災している。あの惨状を知る彼らは、いてもたってもいられないのだった。
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